高から大学へ這入る時に、家事上の都合と云うことで彼は大阪の生家へ帰り、それきり学業を廃《はい》してしまった。その頃私が聞いたのでは、津村の家は島《しま》の内《うち》の旧家で、代々質屋を営み、彼の外《ほか》に女のきょうだいが二人あるが、両親は早く歿《ぼっ》して、子供たちは主に祖母の手で育てられた。そして姉娘はつとに他家へ縁づき、今度妹も嫁入り先がきまったについて、祖母も追い追い心細くなり、忰《せがれ》を側《そば》へ呼びたくなったのと、家の方の面倒を見る者がないのとで、急に学校を止《や》めることにした。「それなら京大へ行ったらどうか」と、私はすすめてみたけれども、当時津村の志は学問よりも創作にあったので、どうせ商売は番頭任せでよいのだから、暇《ひま》を見てぽつぽつ小説でも書いた方が気楽だと、云うつもりらしかった。 しかしそれ以来、ときどき文通はしていたのだが、一向物を書いているらしい様子もなかった。ああは云っても、家に落ち着いて暮らしに不自由のない若旦那《わかだんな》になってしまえば、自然野心も衰《おとろ》えるものだから、津村もいつとなく境遇《きょうぐう》に馴《な》れ、平穏《へいおん》な町人生活に甘んずるようになったのであろう。私はそれから二年ほど立って、ある日彼からの手紙の端に祖母が亡くなったと云う知らせを読んだ時、いずれ近いうちに、あの「御料人様《ごりょうにんさん》」と云う言葉にふさわしい上方風《かみがたふう》な嫁《よめ》でも迎《むか》えて、彼もいよいよ島の内の旦那衆《だんなしゅう》になり切ることだろうと、想像していた次第であった。 そんな事情で、その後津村は二三度上京したけれども、学校を出てからゆっくり話し合う機会を得たのは、今度が始めてなのである。そして私は、この久振《ひさしぶり》で遇《あ》う友の様子が、大体想像の通りであったのを感じた。男も女も学生生活を卒《お》えて家庭の人になると、にわかに栄養が良くなったように色が白く、肉づきが豊かになり、体質に変化が起るものだが、津村の人柄にもどこか大阪のぼんち[#「ぼんち」に傍点]らしいおっとりした円みが出来、まだ抜け切れない書生言葉のうちにも上方訛《かみがたなま》りのアクセントが、―――前から多少そうであったが、前よりは一層|顕著《けんちょ》に―――交るのである。と、こう書いたらおおよそ読者も津村と云う人間の外貌《がいぼう