れて居ました。随って、二人の交情は期せずして親密になり、お互に双方の長所を尊敬し合いつゝ、心私かに級中の劣等生を軽蔑して居たのです。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し] その後十年ばかりの間、岡村君は全然私と同じ歩調で同じ学歴を履んで進みました。丁度中学の五年になった年の春、私は彼に「卒業してから何処の学校へ這入るのだ」と訊ねて見ました。「勿論君と同《おんな》じさ」と彼は言下に勇ましく答えたものです。私は中学の一年頃から、将来文科大学を卒業して、偉大なる芸術家になるのだと揚言して居たのです。 岡村君の数学に対する低能の程度はその時分からいよ/\顕著になり始めて、級中の席順なども首席の私よりは遥に下の方になりました。数学と云う数学は無論の事、物理とか、化学とか、凡べて数学の知識を要する種類の学課は、みんな岡村君の忌み嫌う所でした。もう一つ彼の嫌いなのは歴史でした。「歴史と云う者は一つの長い線《ライン》に過ぎない。」と、彼は始終云って居ました。彼の好きなものは第一に語学、それから機械体操、図画唱歌などで、英語は既に四年生時分から、卒業程度の学力を具えて居たと見え、種々雑多な小説類や哲学的の書籍に目を曝して居た様子です。そうして、自分の家庭に西洋人の教師を聘して、いつの間にか独逸語や仏蘭西語など迄読んだり話したりする様になって居ました。彼の喉と舌とは、余程外国語の発音に適当して居たらしく、学校で教わって居るつまらないリーダーの文章ですら、一と度び彼に朗読されると何とも云えない流暢な響きを伝えて、忽ち金玉の文字と化し去るような気がするのです。その頃日本の文壇にはモオパッサンの作物が持て囃された時代でしたが、私共が覚束ない飜訳を便りにして通がって居る際に、彼はもう原文ですら/\と読み下す事が出来ました。 「君、ふらんす語のモオパッサンはこんなに綺麗なものだよ。」 と云って、彼は或る時 Sur《シュウル》 L'eau《ロオ》 の初めの方を一ページばかり読んで聞かせた事があります。ふらんす語に就いて何等の知識も持たなかった私の耳にも、成る程それは世にも美しい文章の如く感ぜられました。このような美しい国語を知って居る岡村君が、此頃俄に日本の文学を疎《うと》んじ出したのは無理のない事だと思いました。今になって考えて見れば、私は彼の朗読に依って、初めて外国語に対する趣味と理解力とを