喜んで居ました。そうして親父にせびっては毎晩のように寄席《よせ》へ伴れて行って貰います。彼は落語家に対して、一種の同情、寧ろ憧憬の念をさえ抱いて居ました。先ずぞろりとした風采で高座へ上り、ぴたりとお客様へお時儀をして、さて、 「えゝ毎度伺いますが、兎角此の殿方のお失策《しくじり》は酒と女でげして、取り分け御婦人の勢力と申したら大したものでげす。我が国は天《あま》の窟戸《いわと》の始まりから『女ならでは夜の明けぬ国』などと申しまする。………」 と喋り出す舌先の旨味《うまみ》、何となく情愛のある話し振りは、喋って居る当人も、嘸《さぞ》好い気持だろうと思われます。そうして、一言一句に女子供を可笑しがらせ、時々愛嬌たっぷりの眼つきで、お客の方を一循見廻して居る。其処に何とも云われない人懐《ひとなつ》ッこい所があって、「人間社会の温か味」と云うようなものを、彼はこう云う時に最も強く感じます。 「あ、こりゃ、こりゃ。」 と、陽気な三味線に乗って、都々逸《どゞいつ》、三下《さんさが》り、大津絵《おおつえ》などを、粋《いき》な節廻しで歌われると、子供ながらも体内に漠然と潜んで居る放蕩の血が湧き上って、人生の楽しさ、歓ばしさを暗示されたような気になります。学校の往き復りには、よく清元の師匠の家の窓下に彳《たゝず》んで、うっとりと聞き惚れて居ました。夜机に向って居る時でも、新内の流しが聞えると勉強が手に附かず、忽ち本を伏せて酔ったようになって了います。二十《はたち》の時、始めて人に誘われて藝者を揚げましたが、女達がずらりと眼の前に並んで、平生《ひごろ》憧れていたお座附の三味線を引き出すと、彼は杯を手にしながら、感極まって涙を眼に一杯溜めていました。そう云う風ですから、藝事の上手なのも無理はありません。 彼を本職の幇間にさせたのは、全く榊原の旦那の思い附きでした。 「お前もいつまで家にごろ/\して居ても仕方があるめえ。一つ己が世話をしてやるから、幇間になったらどうだ。只で茶屋酒を飲んで其の上祝儀が貰えりゃあ、此れ程結構な商売はなかろうぜ。お前のような怠け者の掃《は》け場には持って来いだ。」 こう云われて、彼も早速其の気になり、旦那の胆煎《きもい》りで到頭柳橋の太鼓持ちに弟子入りをしました。三平《さんぺい》と云う名は、其の時師匠から貰ったのです。 「桜井が太鼓持ちになったって? 成程人間に廃《