とが出来ると思った。私は秘密と云う物の面白さを、子供の時分からしみじみと味わって居た。かくれんぼ、宝さがし、お茶坊主《ちゃぼうず》のような遊戯―――殊《こと》に、それが闇《やみ》の晩、うす暗い物置小屋や、観音開きの前などで行われる時の面白味は、主としてその間に「秘密」と云う不思議な気分が潜んで居るせい[#「せい」に傍点]であったに違いない。 私はもう一度幼年時代の隠れん坊のような気持を経験して見たさに、わざと人の気の附かない下町の曖昧《あいまい》なところに身を隠したのであった。そのお寺の宗旨が「秘密」とか、「禁厭《まじない》」とか、「呪詛《じゅそ》」とか云うものに縁の深い真言宗であることも、私の好奇心を誘うて、妄想《もうそう》を育《はぐく》ませるには恰好《かっこう》であった。部屋は新らしく建て増した庫裡の一部で、南を向いた八畳敷きの、日に焼けて少し茶色がかっている畳が、却って見た眼には安らかな暖かい感じを与えた。昼過ぎになると和やかな秋の日が、幻燈《げんとう》の如くあかあかと縁側の障子《しょうじ》に燃えて、室内は大きな雪洞《ぼんぼり》のように明るかった。 それから私は、今迄親しんで居た哲学や芸術に関する書類を一切|戸棚《とだな》へ片附けて了って、魔術だの、催眠術だの、探偵小説だの、化学だの、解剖学だのの奇怪な説話と挿絵《さしえ》に富んでいる書物を、さながら土用干《どようぼし》の如く部屋中へ置き散らして、寝ころびながら、手あたり次第に繰りひろげては耽読《たんどく》した。その中には、コナンドイルの The Sign of Four や、ドキンシイの Murder, Considered as one of the fine arts や、アラビアンナイトのようなお伽噺《とぎばなし》から、仏蘭西《フランス》の不思議な Sexuology の本なども交っていた。 此処の住職が秘していた地獄極楽の図を始め、須弥山《しゅみせん》図だの涅槃像《ねはんぞう》だの、いろいろの、古い仏画を強《し》いて懇望して、丁度学校の教員室に掛っている地図のように、所|嫌《きら》わず部屋の四壁へぶら下げて見た。床の間の香炉からは、始終紫色の香の煙が真っ直ぐに静かに立ち昇って、明るい暖かい室内を焚《た》きしめて居た。私は時々菊屋橋|際《ぎわ》の舗《みせ》へ行って白檀《びゃくだん》や沈香《じんこう》を買って