景色であろう。「里人|岩飛《いわとび》とて岸の上より水底へ飛入て川下におよぎ出て人に見せ銭をとる也|飛《とぶ》ときは両手を身にそえ両足をあわせて飛入水中に一|丈《じょう》ばかり入て両手をはれば浮み出るという」とあって、名所図会にはその岩飛びの図が出ているが、両岸の地勢、水の流れ、あの絵の示す通りである。川はここへ来て急カーヴを描きつつ巨大な巌《いわお》の間へ白泡を噴いて沸《たぎ》り落ちる。さっき大谷家で聞いたのに、毎年|筏《いかだ》がこの岩に打《ぶ》つかって遭難《そうなん》することが珍しくないと云う。岩飛びをする里人は、平生この辺で釣《つ》りをしたり、耕したりしていて、たまたま旅人の通る者があれば、早速《さっそく》勧誘して得意の放《はな》れ業《わざ》を演じて見せる。向う岸のやや低い岩から飛び込むのが百文、こちら岸の高い方の岩からなら二百文、それで向うの岩を百文岩、こちらの岩を二百文岩と呼び、今にその名が残っているくらいで、大谷家の主人も若い時分に見たことがあるけれども、近頃はそんなものを見物する旅客も稀《まれ》になり、いつか知らず滅《ほろ》びてしまったのだそうである。 「ね、昔は吉野の花見と云うと、今のように道が拓《ひら》けていなかったから、宇陀《うだ》郡の方を廻って来たりして、この辺を通る人が多かったんだよ。つまり義経の落ちて来た道と云うのが普通の順路じゃなかったのかね。だから竹田出雲なんぞきっとここへやって来て、初音の鼓を見たことがあるんだよ」 ―――津村はその岩の上に腰をおろして、いまだに初音の鼓のことをなぜか気にかけているのである。自分は忠信狐《ただのぶぎつね》ではないが、初音の鼓を慕《した》う心は狐にも勝るくらいだ、自分は何だか、あの鼓を見ると自分の親に遇《あ》ったような思いがする、と、津村はそんなことを云い出すのであった。 ここで私は、この津村と云う青年の人となりをあらまし読者に知って置いて貰わねばならない。実を云うと、私もその時その岩の上で打ち明け話を聞かされるまで委《くわ》しいことは知らなかった。―――と云うのは、前にもちょっと述べたように、彼と私とは東京の一高時代の同窓で、当時は親しい間柄であったが、一高から大学へ這入る時に、家事上の都合と云うことで彼は大阪の生家へ帰り、それきり学業を廃《はい》してしまった。その頃私が聞いたのでは、津村の家は島《しま》