、こちらは東京を夜汽車で立ち、途中《とちゅう》京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは持主が変っているそうで、あの時分のは建物も古くさく、雅致《がち》があったように思う。鉄道省のホテルが出来たのはそれから少し後のことで、当時はそこと、菊水《きくすい》とが一流の家であった。津村は待ちくたびれた形で、早く出かけたい様子だったし、私も奈良は曾遊《そうゆう》の地であるし、ではいっそのこと、せっかくのお天気が変らないうちにと、ほんの一二時間|座敷《ざしき》の窓から若草山を眺《なが》めただけで、すぐ発足した。 吉野口で乗りかえて、吉野駅まではガタガタの軽便鉄道《けいべんてつどう》があったが、それから先は吉野川に沿うた街道《かいどう》を徒歩で出かけた。万葉集にある六田《むつだ》の淀《よど》、―――柳《やなぎ》の渡《わた》しのあたりで道は二つに分れる。右へ折れる方は花の名所の吉野山へかかり、橋を渡るとじきに下の千本になり、関屋の桜、蔵王権現《ざおうごんげん》、吉水院《きっすいいん》、中の千本、―――と、毎年春は花見客の雑沓《ざっとう》する所である。私も実は吉野の花見には二度来たことがあって、幼少のおり上方《かみがた》見物の母に伴《ともな》われて一度、そののち高等学校時代に一度、やはり群集の中に交りつつこの山道を右へ登った記憶《きおく》はあるのだが、左の方の道を行くのは始めてであった。 近頃は、中の千本へ自動車やケーブルが通うようになったから、この辺をゆっくり見て歩く人はないだろうけれども、むかし花見に来た者は、きっとこの、二股《ふたまた》の道を右へ取り、六田の淀の橋の上へ来て、吉野川の川原《かわら》の景色《けしき》を眺めたものである。 「あれ、あれをご覧なさい、あすこに見えるのが妹背山《いもせやま》です。左の方のが妹山、右の方のが背山、―――」 と、その時案内の車夫は、橋の欄干《らんかん》から川上の方を指《ゆび》さして、旅客の※[#「筑」の「凡」に代えて「おおざと」、第3水準1-89-61]《つえ》をとどめさせる。かつて私の母も橋の中央に俥《くるま》を止めて、頑是《がんぜ》ない私を膝《ひざ》の上に抱《だ》きながら、 「お前、妹背山の芝居《しばい》をおぼえているだろう? あれがほんとうの妹背山なんだとさ」 と、耳元へ口をつけて云った。幼いおりのこと