」と云う信条を、実行しているつもりなのであろう。要が常に滑稽《こっけい》に感じるのは、「老人々々」と云うもののこの父親はまだそれほどの歳ではない、二十五とかに結婚して、今は亡《な》くなったその連れ合いが長女の美佐子を生んだとすると、恐らく五十五六より取ってはいない筈である。父の性慾はまだ変形していないと云う美佐子の観察はそれを裏書きするもので、「お前のお父さんの老人ぶるのは、あれは一つの趣味なんだよ」と、彼もかねがね云っているのである。 「奥様《おくさん》、おみあ[#「おみあ」に傍点]が痛いことおへんか? どうぞ此方《こっち》へお出しやして、………」 気のいいお久は窮屈な升の中でまめまめしく茶を入れたり、菓子をすすめたり、何を云っても振り向きもしない美佐子を相手にときどき話しかけたりして、その合い間には、うしろへ右の腕を伸ばして煙草盆の角に載せられた杯のふちへ手をかけている老人に、なくなる頃を見はからってはそうっ[#「そうっ」に傍点]と酒を注《つ》いでやっている。老人は近頃「酒は塗り物に限る」と云い出して、その杯も朱塗りに東海道五十三次の蒔絵のある三つ組のうちの一つであった。御殿女中が花見にでも行くようにこう云うものを研《と》ぎ出しの提げ重の抽出《ひきだ》しへ入れて、飲み物から摘まみ物までわざわざ京都から運んで来るのでは、茶屋に取っても有り難くない客であろうが、お久もずいぶん気骨が折れるに違いあるまい。 「お一つどうどす?」 そう云って彼女は、新たに抽出しから出した杯を要にさした。 「有り難う、僕は昼間は飲まないんだが、………外套を脱いだら何だかうすら寒いから、少うしばかり戴きましょう」 髪の油か、何か分らないが、忍びやかな丁子《ちょうじ》のにおいに似たものが、彼女の鬢《びん》の毛と共にかすかに彼の頬《ほお》にさわった。彼は己れの手の中にある杯の、なみなみと湛《たた》えた液体の底に金色に盛り上っている富士の絵を視《み》詰めた。富士の下には広重《ひろしげ》風の町の景色の密画があって、横に「沼津」と記してある。 「これで飲んだら、品《ひん》が好すぎて頼りないような気がしますね」 「そうどすやろ」 彼女が笑うと、京都の女が愛らしいものの一つに数える茄子歯《なすびば》が見えた。二枚の門歯の根の方が鉄漿《かね》を染めたやうに黒く、右の犬歯の上に八重歯が一つ、上唇《うわくちびる》の