》の文楽座を覗いた時には何の興味も湧《わ》かなかった要は、ただその折にひどく退屈した記憶ばかりが残っていたので、今日は始めから期待するところもなく義理で見物に来たのであるのに、知らず識《し》らず舞台の世界へ惹き込まれて行く自分を見ることは意外であった。十年のあいだにやっぱり歳を取ったんだなと、思わずにはいられなかった。この調子だと京都の老人の茶人ぶりも馬鹿には出来ない。更に十年も立つうちには自分もそっくりこの老人の歩んだ道を辿《たど》るようになるのではないか。そしてお久のような妾を置いて、腰に金唐革《きんからかわ》の煙草入れを提げ、蒔絵の弁当箱を持って芝居見物に来るようなふうに、………いや事に依ると十年を待たないかも知れない。自分は若い時分から老成ぶる癖があったから、人一倍早く年を取る傾向があるのだ。―――要は下膨《しもぶく》れの頬を見せているお久の横鬢《よこびん》と、舞台の小春とを等分に眺めた。いつもは眠いような、ものうげな顔の持ち主であるお久の何処やらに小春と共通なもののあるのが感ぜられた。同時に彼の胸の中に矛盾した二つの情緒がせめいだ、―――老境に入ることは必ずしも悲しくはない、老境には老境でおのずからなる楽しみがある、と云う気持と、そんなことを考えるのが既に老境に入ろうとする兆《きざし》だ、夫婦別れをしようと云うのは、自分も美佐子ももう一度自由に復《かえ》って、青春を生きようためではないのか、今の自分は妻への意地でも年を取ってはならない場合だ、と云う気持と。――― [#5字下げ]その三[#「その三」は中見出し] 「ゆうべはわざわざ電話を戴きまして有り難う存じました。………」 幕あいになるとぐるり[#「ぐるり」に傍点]と此方《こっち》へ向きを変えた老人に、要は改めて挨拶《あいさつ》しながら、 「お蔭さまで今日はまことに面白うございます。全くお世辞でなく、いい所がありますな」 「私が人形使いじゃあないからお世辞を云われる事はないがね」 と、老人は女物の古裂《こぎれ》で作った色のさめたお納戸縮緬《なんどちりめん》の襟巻《えりまき》の中へ寒そうに首をちぢめて、やに[#「やに」に傍点]下った形で云った。 「まあ、あなたがたを誘ってもどうせ退屈だろうけれど、しかし一遍は見て置くといいと思ったんで、………」 「いいえ、なかなか面白いですよ、この前見た時とはまるで感じが違う