ら御心を移され、内々にお支度ありて、大名小名によらず、御意《ぎよい》に従ふべきと思召す者共には、お手前にてお茶を下され、或は御太刀、刀、御茶湯の道具によらず、その程々に従ひ、金銀を遣されける間、何事もあらば一命を奉らんと存ずる者共あまたなり」と。秀次は又、朝廷に白銀三千枚を上納し、五百枚を第一の皇子に、五百枚を准三宮藤原晴子に、五百枚を女御《にょうご》藤原前子に、三百枚を式部卿智仁親王に、五百枚を准三宮聖護院道澄に献じた。そうして相変らず殺生の悪戯をつゞけ、しば/\鹿狩や夜興に出かけたが、そう云う場合にいつも兵具を携《たずさ》えて、物々しい様子をしていたので、附き従う者共も具足や兜《かぶと》などを密かに挟箱《はさみばこ》に入れて持ち歩き、恰《あたか》も戦場に赴《おもむ》く軍隊のような感があった。それらの行為は、たとい叛逆の意志がなかったとしても、少くとも太閤の疑惑を招くには十分であって、軽卒の咎《とが》めは免れられない。 [#挿絵(fig56945_46.png、横535×縦389)入る] [#挿絵(fig56945_47.png、横559×縦406)入る] 「それから、あの吉野山のお花見から一年の後、文禄四年二月の中ごろのことでござりました。或る日聚楽の御城から熊谷大膳どのを殿下へお使者に立てられまして、伏見の里の秋の月は古より歌に名高うござりますが、毎年のことでござりますから、今年の秋は趣向を変えて北山へお越しなされませ、廣沢の池の眺めも伏見とは違うて、又格別でござります。なおその折は若君のお慰みに、八瀬小原にて狩くらを催すことにいたしましょうと、そう云う御口上を述べられましたところ、殿下も斜めならずお喜び遊ばし、よいことを思いついてくれた、何事も関白の心任せに致すから、帰ってその由を伝えてくれと仰っしゃって、御太刀一腰、御呉服あまた下されましたので、大膳殿もたいそう面目を施しまして、戻って来られたことがござりました。それで、お城では、太閤殿下|御成《おなり》のために御殿を造ることになりまして、鍛冶《かじ》や番匠を召し集め、秋の月見に間に合うように夜を日に継いで工事を急いでおりましたが、それが飛んでもない禍《わざわい》の因になったのでござります。と申しますのは、五月二十五日のこと、夜《よ》更けて治部少輔殿のお邸へ、何者とも知れず文箱《ふばこ》を持参いたして参り、聚楽