ばし、おもてなしをお受けなされまして、それより千本の桜、花園、桜田、ぬたの山、かくれがの松などを御覧遊ばし、 [#ここから1字下げ] 芳野山梢の花のいろ/\に    おどろかれぬる雪の曙 [#ここで字下げ終わり] また関屋の花の木の下にて、 [#ここから1字下げ] 芳野山誰とむるとはなけれども    今宵も花のかげにやどらん [#ここで字下げ終わり] 関白殿のお歌には、 [#ここから1字下げ] 木々は花苔路は雪と御芳野の    わけあかぬ山の春の袖かな [#ここで字下げ終わり] 以下の公卿衆、大名衆、紹巴《しょうは》、昌叱などの方々も、めい/\短冊を染められまして、さてかねの鳥居、仁王門をお通りになり、蔵王堂へ御参詣なされ、南朝の皇居のあとをおとぶらいなされましてから、桜ヶ嶽、今熊野、たってん山、聖天山、弁才天山など、峰々の花をお眺め遊ばして、昔義経が暫く忍んでおりましたと云う吉水の城を御旅館にお充《あ》てなされました。そこのお宿に殿下は二日御|逗留《とうりゅう》でござりましたが、警護の武士などきびしゅう番をするには及ばぬ、小姓ばかりを詰めさせて置けば仔細はないから、誰も/\思い/\の花見をせよと仰っしゃって、酒や肴を賜わったのでござりました。今申しましたお歌の会は、その折のお催しでござりまして、殿下の遊ばされましたのは、 [#ここから1字下げ] いつしかと思ひ送りし御芳野の    花をけふしも見そめぬる哉 [#ここで字下げ終わり] たしか斯様《かよう》であったと存じます。此の芳野山の花の宴は、太閤殿下が栄華の盛りを極められました御遊のことゝて、かの醍醐の花見と共に今も人々の語り草になっておりますくらい、当時は朝鮮の戦も止みまして、四海《しかい》波《なみ》静かに、供奉《ぐぶ》の方々も太平の春を喜んだのでござりまして、関白殿とのおん仲もまだその頃はお睦じゅう見えましたのに、それより僅か一年を隔てゝあのようなことが起りましょうとは、淵瀬《ふちせ》を定めぬ世の習いとは申しながら、全く人の身の上は分らぬものでござります」 [#挿絵(fig56945_44.png、横528×縦475)入る] それなら秀次が、いつ頃から太閤に対して逆心を蔵するようになったか、どうしてそう云う疑いを招くに至ったかと云うのに、順慶の語るところは左の如くである。 「もとより愚僧は左様なことを探りますのが