て秀次の性情の優美な方面を説くのである。 「世間の人は殺生関白《せっしょうかんぱく》などゝ申して、むごたらしいことがお好きなように申しますが、あれでなか/\風雅の道をお嗜《たしな》みなされ、和漢の古書をお集めなされたり、連句や詩歌の会をお催しなされたり、思いの外やさしいところがおありになりました。取り分け和歌はようお詠みなされましたが、或る年の春吉野山にてお歌の会をなされました時のおうたに、 [#ここから1字下げ] 年月を心にかけし御芳野の 花の木蔭にしばしやすらふ かた分けてなびく柳も咲きいづる 花にいとはぬ春のあさかぜ みるが内に槇《まき》のしづえも沈みけり 芳野の滝の花のあらしに [#ここで字下げ終わり] それから又、 [#ここから1字下げ] 千早振《ちはやぶ》る神やみるらん芳野山 から紅《くれなゐ》の花のたもとを 治まれる代の形こそみよしのゝ 花にしつやも情くむ声 [#ここで字下げ終わり] などゝ遊ばしましたのを、今もおぼえているのでござります」 [#挿絵(fig56945_43.png、横701×縦539)入る] 「左様でござります、その芳野山へ花見にいらっしゃいましたのは、太閤殿下が思し立たれたのでござりまして、関白殿を始め奉り、家康公、利家公、その他のお歴々にお供を仰せつけられ、文禄三年の二月二十五日に、大坂を御発足なされたのでござります。その時太閤殿下には、作り鬚《ひげ》、作り眉を遊ばし、鉄漿《かね》をおつけになりまして、美々しき衣裳をお召しなされ、供奉《ぐぶ》の人々も皆々派手を競われて、若々しきいでたちをなされましたので、その行列を拝見しようと、大勢の群集が野にも山にも満ち/\たほどでござりました。そうして二十七日に六田《むた》の橋へお着きなされ、市之坂をお上りなされますと、大和中納言秀俊卿が道の傍に御茶屋をしつらえて、お待ちになっておられました。殿下はそこで御休息遊ばし、おもてなしをお受けなされまして、それより千本の桜、花園、桜田、ぬたの山、かくれがの松などを御覧遊ばし、 [#ここから1字下げ] 芳野山梢の花のいろ/\に おどろかれぬる雪の曙 [#ここで字下げ終わり] また関屋の花の木の下にて、 [#ここから1字下げ] 芳野山誰とむるとはなけれども 今宵も花のかげにやどらん [#ここで字下げ終わり] 関白殿の