して置くのは、この神苑の花が洛中《らくちゅう》に於《お》ける最も美しい、最も見事な花であるからで、円山公園の枝垂桜《しだれざくら》が既に年老い、年々に色褪《いろあ》せて行く今日では、まことに此処《ここ》の花を措《お》いて京洛の春を代表するものはないと云ってよい。されば、彼女たちは、毎年二日目の午後、嵯峨方面から戻って来て、まさに春の日の暮れかかろうとする、最も名残の惜しまれる黄昏《たそがれ》の一時《ひととき》を選んで、半日の行楽にやや草臥《くたび》れた足を曳《ひ》きずりながら、この神苑の花の下をさまよう。そして、池の汀《みぎわ》、橋の袂《たもと》、路《みち》の曲り角、廻廊の軒先、等にある殆《ほとん》ど一つ一つの桜樹の前に立ち止って歎息し、限りなき愛着の情を遣《や》るのであるが、蘆屋の家に帰ってからも、又あくる年の春が来るまで、その一年じゅう、いつでも眼をつぶればそれらの木々の花の色、枝の姿を、眼瞼《まぶた》の裡《うち》に描き得るのであった。 今年も幸子たちは、四月の中旬の土曜から日曜へかけて出かけた。袂の長い友禅の晴れ着などを、一年のうちに数える程しか着せられることのない悦子は、去年の花見に着た衣裳《いしょう》が今年は小さくなっているので、たださえ着馴《きな》れないものを窮屈そうに着、この日だけ特別に薄化粧をしているために面変りのした顔つきをして、歩く度毎にエナメルの草履の脱げるのを気にしていたが、瓢亭の狭い茶座敷にすわらせられると、つい洋服の癖が出て膝《ひざ》が崩《くず》れ、上ん前がはだけて膝小僧が露《あら》われるのを、 「それ、悦ちゃん、弁天小僧」 と云って、大人達は冷やかした。悦子はまだ箸《はし》の持ち方がほんとうでなく、子供独得の変な持ち方をする上に、袂が手頸《てくび》に絡《から》み着いて洋服の時とは勝手が違うせいか、物をたべるのも不自由らしく、八寸に載って出た慈姑《くわい》をひょいと挟《はさ》もうとして、箸の間から落した拍子に、慈姑が濡《ぬ》れ縁から庭にころげて、青苔《あおごけ》の上をころころと走って行ったのには、悦子も大人達も声を挙げて笑ったが、それが今年の行事に於ける最初の滑稽《こっけい》な出来事であった。 明くる日の朝は、先ず広沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に、幸子、悦子、雪子、妙子、と云う順に列《なら》んだ姿を、遍照寺山を背