いがあるねん」 幸子は身支度をしてしまうと、そんならちょっと、晩の御飯までに帰って来るよってに、と云い置いてひとりで出かけたが、雪子は姉が脱ぎ捨てて行った不断着を衣紋竹《えもんだけ》にかけ、帯や帯締を一と纏めにして片寄せてから、なお暫くは手すりに靠《もた》れて庭を見ていた。 蘆屋《あしや》のこのあたりは、もとは大部分山林や畑地だったのが、大正の末頃からぽつぽつ開けて行った土地なので、この家の庭なども、そんなに広くはないのだけれども、昔の面影を伝えている大木の松などが二三本取り入れてあり、西北側は隣家の植え込みを隔てて六甲一帯の山や丘陵が望まれるところから、雪子はたまに上本町の本家へ帰って四五日もいてから戻って来ると、生れ変ったように気分がせいせいするのであった。彼女が今立って見おろしている南側の方には、芝生と花壇があり、その向うにささやかな築山《つきやま》があって、白い細かい花をつけた小手毬《こでまり》が、岩組の間から懸崖《けんがい》になって水のない池に垂れかかり、右の方の汀《みぎわ》には桜とライラックが咲いていた。但《ただ》し、桜は幸子が好きなので、たとい一本でも庭に植えて自分の家で花見をしたいからと、二三年前に入れさせたもので、それが咲く時はその木の下に床几《しょうぎ》を出したり毛氈《もうせん》を敷いたりするのだけれども、どう云う訳か育ちが悪くて、毎年|頗《すこぶ》る貧弱な花をしか着けないのであるが、ライラックは今雪のように咲き満ちて、芳香を放っていた。そのライラックの木の西に、まだ芽を出さない栴檀《せんだん》と青桐《あおぎり》があり、栴檀の南に、仏蘭西語で「セレンガ」と云う灌木《かんぼく》の一種があった。雪子たちの語学の教師であるマダム塚本と云う仏蘭西人が、自分の国に沢山あるセレンガの花を、日本へ来てから見たことがなかったのに、この庭にあるのは珍しいと云って、ひどく懐《なつか》しがってから、雪子たちもこの木に注意するようになり、仏和辞典を引いてみて、日本語では「さつまうつぎ」と云うところの卯木《うつぎ》の一種であることを知ったが、この花の咲くのは、いつも小手毬やライラックが散った後、離れ座敷の袖垣《そでがき》のもとにある八重山吹の咲くのと同時ぐらいなので、今はまだ、ようよう若葉が芽を吹きかけているだけである。その「さつまうつぎ」の向うが、シュトルツ氏の裏庭との境界