ふところ》に入れて帰陣致し候間、桔梗の方逆心のことは誰一人も悟らず候。某《それがし》よしなき勇をふるひてあはれ此の者を討ち果たし、かのおん方の志を妨げ候こと一期《いちご》の不覚にて候ひしかども、今より後は無二の味方を申し、内々手引きして望みを叶《かな》へまゐらせん折もあるべしと、此の時より心変りいたし候 [#ここで字下げ終わり] つまり「織部正を生きながら鼻缺けにする」と云う一事に、河内介の病的な慾望と、桔梗の方の復讐心とが、期せずして満足を求めることになったのである。だからその目的の達成に最も肝要な人物であった図書を殺してしまったことは、両人のために不便を来たした訳なのだが、織部正のためには甚だ気の毒にも、間もなく滑稽な事件が起って来るのである。 [#4字下げ][#中見出し]筑摩則重《つくまのりしげ》兎唇《みつくち》になる事、並びに上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《じょうろう》の厠《かわや》の事[#中見出し終わり] 天文二十四年|乙卯《いつぽう》の春、月形城の合戦から半歳ほど過ぎた弥生《やよい》半ばのことであった。織部正則重は居城牡鹿山の奥御殿の庭で花見の宴を催し、折柄満開の桜の木かげに幔幕《まんまく》を繞《めぐ》らし毛氈《もうせん》を敷いて、夫人や腰元どもと酒を酌《く》みながら和歌管絃の興に耽《ふけ》っていた。宴は朝から始まって、ゆうがた、空におぼろ月のかゝる頃までつゞいたが、莚の上にところ/″\燈火が運び込まれた時分、いたく酔った則重は座頭に鼓《つゞみ》を打たせて自ら謡《うた》いながら曲舞《くせま》いを舞った。それが終りに近づいて、 [#ここから2字下げ] 花の錦の下紐《したひも》は とけてなか/\よしなや 柳の絲の乱れごゝろ いつ忘りよぞ 寝乱れ髪の面影 [#ここで字下げ終わり] と、舞い収めようとした時であった。不意に何処からか矢が飛んで来て、則重の顔を横さまにかすり、危く彼の大事な鼻を桜の花と一緒に散らすかと見えたが、鼻より少し下の方へ来、上唇の突端を傷《きずつ》けて過ぎた。 「曲者《くせもの》!」 則重は六七間向うの桜の枝から黒い影が飛び降りて逃げ出したのを、確かに見たような気がしたので、血のしたゝる口を押さえて直ぐ大声に叫んだけれども、―――いや、叫ぼうとしたけれども、―――どう云う訳か発音が乱れて思うように言葉が使えな