まりやすのんやろ?」 「さあ、それがどうなるか分らないんです」 「そう云わんとまあお這入りやす。おいしい物おへんよって、せいぜいお腹減しといとおくれやす」 要はここの風呂へ這入るのは久し振りだった。上方に普通な長州風呂と云う奴で、一人の体が満足には漬《つ》からないくらい小さな釜の、周りの鉄の焼けて来るのが東京風のゆっくりとした木製の湯槽《ゆぶね》に馴れた者には肌ざわりが気味悪く、なんだか「風呂へ這入った」と云う心持がしないのに、まして湯殿がおそろしく陰気な建て方で、高いところに無双窓《むそうまど》があるだけだから昼間でも厭《いや》にうすぐらい。自分の家でタイル張りの浴室にばかり這入りつけているせいか穴蔵へでも入れられたようで、その上|丁子《ちょうじ》を煎《せん》じてあるのが、垢《あか》だらけに濁った薬湯《くすりゆ》のような連想を起させるのである。美佐子なぞは、あのお湯は丁子の匂いで胡麻化してあるので幾日目に換えるのだか分らないと云って、すすめられると体よく逃げたものであったが、主の方は又「うちの丁子風呂」と云うのを自慢にして、客への御馳走と心得ているらしかった。老人の「雪隠《せついん》哲学」に依ると、「湯殿や雪隠を真っ白にするのは西洋人の馬鹿な考だ、誰も見ていない場所だからと云って自分で自分の排泄《はいせつ》物が眼につくような設備をするのは無神経も甚《はなはだ》しい、すべて体から流れ出る汚物は、何処《どこ》までも慎しみ深く闇に隠してしまうのが礼儀である」と云うのであって、いつも杉の葉の青々としたのを朝顔に詰めるのはいいとして、「純日本式の、手入れの届いた厠《かわや》には必ず一種特有な、上品な匂いがする、それが云うに云われない奥床《おくゆか》しさを覚えさせる」と云うような奇抜な意見さえあるのだが、雪隠の方はともかくも、風呂場の暗いのにはお久も内証で不便をかこつことがあった。彼女の話だと、丁子も近頃はエッセンスを売っているから、その一二滴を垂《た》らしさえすれば済むものを、矢張昔風に実の干したのを袋に入れて、湯の中へ漬けておかなければ老人が収まらないのだと云う。 「肩流しておくれやすんやけど、あんまり暗おすので、前とうしろと間違えたりおしやしてなあ」 要はお久のそんな言葉を想い出しながら、柱にかけてある糠袋《ぬかぶくろ》を見た。 「お加減はどうどす?」 と、焚《き》き口の方