らまだ移り香がかすかに残っている右のてのひらの匂いを嗅《か》いだ。そのたなごころに沁《し》み着いたのは、どう云う訳か風呂から上った最後までも匂っているので、この頃はわざとそこだけ洗わないようにして、なまめかしい秘密を手の中へ握って帰るのであった。 「今度こそほんとうにこれっきりだろうか、もう二度と行かずにいられるだろうか」 と、彼はそんなことを考えてもみた。今の自分は誰に遠慮をする必要もないのであるが、彼にはへんに道徳的な、律義《りちぎ》なところがあるせいであろうか、青年時代から持ち越しの、「たった一人の女を守って行きたい」と云う夢が、放蕩《ほうとう》と云えば云えなくもない目下の生活をしていながら、いまだに覚め切れないのである。妻をうとみつつ妻ならぬ者に慰めを求めて行ける人間はいい、もしも要にその真似《まね》が出来たら美佐子との間にも今のような破綻《はたん》を起さず、どうにか弥縫《びほう》して行けたであろう。彼は自分のそう云う性質に誇りも引け目も感じてはいないが、正直なところそれは義理堅いと云うよりも寧ろ極端な我がままと潔癖なのだと、自分では解釈していた。国を異にし、種族を異にし、長い人生の行路の途中でたまたま行き遇《あ》ったに過ぎないルイズのような女にさえも肌を許すのに、その惑溺《わくでき》の半分をすら、感ずることの出来ない人を生涯の伴侶《はんりょ》にしていると云うのは、どう思っても堪えられない矛盾ではないか。 [#5字下げ]その十三[#「その十三」は中見出し] [#ここから1字下げ] 拝復 先日は失礼致|候《そうろう》。あれより予定の通り阿波《あわ》の鳴門徳島を経て去月二十五日|帰洛《きらく》、二十九日御差立の貴札《きさつ》昨夜|披見《ひけん》致候。誠に誠に思いの外の儀、美佐こと素《もと》より不束《ふつつか》ながら日頃左様なる不所存者のようには養育|不致《いたさず》候処、俗に魔がさしたと申すにや、拙老|此《こ》の歳に及び斯《か》かる憂きことを耳にいたし候は何の因果かと悲歎やる方なく候。第一親の身として其許《そこもと》に対しても御|詑《わ》びの申様も無之《これなく》、深く耻入《はじいり》申候。 既に御申越の如き事態に差迫り候ては、今更|兎角《とかく》の執成《とりな》しは御聴入れも可無之《これなかるべく》、重々御立腹の段|察入《さっしいり》候え共、聊《いささ》か存じ