のお顔なぞもその美しさが沁々《しみじみ》と見えてきたのは目しいになってからであるその外《ほか》手足の柔かさ肌《はだ》のつやつやしさお声の綺麗《きれい》さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて味到《みとう》したいつもお師匠様は斯道《しどう》の天才であられると口では云っていたもののようやくその真価が分り自分の技倆《ぎりょう》の未熟《みじゅく》さに比べて余りにも懸隔《けんかく》があり過ぎるのに驚き今までそれを悟《さと》らなかったのは何と云うもったいないことかと自分の愚《おろ》かさが省みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味《あじわ》えたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でずどこまで客観と一致するかは疑問だけれども余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難《そうなん》を一転機として顕著《けんちょ》な進境を示したのではあるまいか。いかに春琴が音曲《おんぎょく》の才能に恵まれていても人生の苦味酸味を嘗《な》めて来なければ芸道の真諦《しんたい》に悟入《ごにゅう》することはむずかしい彼女は従来甘やかされて来た他人に求むるところは酷《こく》で自分は苦労も屈辱《くつじょく》も知らなかった誰も彼女の高慢《こうまん》の鼻を折る者がなかったしかるに天は痛烈《つうれつ》な試練を降《くだ》して生死の巌頭《がんとう》に彷徨《ほうこう》せしめ増上慢《ぞうじょうまん》を打ち砕《くだ》いた。思うに彼女の容貌を襲《おそ》った災禍《さいか》はいろいろの意味で良薬となり恋愛においても芸術においてもかつて夢想だもしなかった三昧境《さんまいきょう》のあることを教えたであろうてる女はしばしば春琴が無聊《ぶりょう》の時を消すために独りで絃を弄《もてあそ》んでいるのを聞いたまたその傍に佐助が恍惚《こうこつ》として項《うなじ》を垂れ一心に耳を傾けている光景を見たそして多くの弟子共は奥の間から洩《も》れる精妙《せいみょう》な撥《ばち》の音を訝《いぶか》しみあの三味線には仕掛《しか》けがしてあるのではないかなどと呟《つぶや》いたと云う。この時代に春琴は弾絃の技巧《ぎこう》のみならず作曲の方面にも思いを凝《こ》らし夜