る。自然と人事との交錯する或《ある》光景の描写の不思議にうまいのは、「源氏《げんじ》」「枕《まくら》」「大鏡《おゝかゞみ》」などの、平安朝ものに見られるのだ。「武州公秘話」のうち、法師丸が老女に連れられて、敵の首に装束をしている婦女子の部屋を訪ずれるあたり、織部正《おりべのしょう》が曲者《くせもの》に鼻をもがれるあたり、異様な光景の叙事たるに留まらず、或《ある》幻影の印象が読者の心に残るのは、この作者が平安朝古典伝来の描写力を有《も》っているためであろう。西洋の近代小説の形式を採らず、自国の物語の体裁を好んで用いんとするのは、この作者近来の傾向であるらしいが、物語が自《おのずか》ら描写になったら日本文学として至極の境地であると、私は思う。永井君の作品では、「榎物語《えのきものがたり》」が、そういう意味で逸品《いっぴん》であると私は思う。 鼻については、芥川君の小説も思出されたが、それよりも、ゴーゴリの「鼻」が思出された。理髪師によって削《そぎ》取られた或男《あるおとこ》の鼻が、官吏の礼服を着けていろんな所に出没するという、甚《はなは》だ巫山戯《ふざけ》た小説であるが、そこにシリアスな人生観察が宿っていそうに推察される。手が無くっても、足が無くっても、或《あるい》は目が無くっても、人間はまだしも忍び得られるのだが、さして必要のなさそうな鼻が無くっては最も汚辱を感じるのだ。鼻の無いほど人間を醜悪にし滑稽にするものはない。「鼻の缺けた首」は醜悪滑稽の象徴である。自分の魂を「鼻の缺けた首」としてしまって、美女と二人きりで甘美な夢の国に遊びたいという武州公の願望は、これを解釈すると、善も美も道徳も、気取りもお体裁も、すべての常套的束縛を脱却し、第三者の目には「鼻の缺けた首」同様、醜とも滑稽とも見えることを、顧慮しないで、思う存分に生を楽《たのし》みたいことを意味しているのだ。美女美男のお上品な愛撫ではまだ物足りない。自分が醜悪滑稽の底をつくして、美女の愛撫を受けることを妄想して舌なめずりする男性の気持が「鼻の缺けた首」礼讃となって、象徴的に現わされているのである。……読者諸君。そう思って武州公の奇怪な願望や行動を心に映じて見るべし。自分自身の心の影が武州公の心の上に見られるかも知れない。 [#地付き](初出 単行本『武州公秘話』中央公論社刊 昭和十年) 底本:「